タンセン(TANSEN)

もし、ネパールを訪れる人がどこか一個所でネパールのすべてを楽しめる所がないか、と考えていたら、タンセンがおすすめだ。タンセンは人口2万人ほどの山の上の小さな町である。ここはポカラから釈迦の生誕地であるルンビニへ行く途中に位置している。また、王立チトワン公園にもそれほど離れてはいない。タンセンはスリナガル(Srinagar)の丘の南斜面の標高1300メートルにあり、その伝統を残した文化、人なつっこい住民、丘の上からのヒマラヤの眺望を誇っている。しかし、何といっても、静かな落ち着いた町のたたずまいは、そこを訪れる人の心を捉えて離さないだろう。気候も年間を通じて温暖で、どんな季節に行っても楽しめる町である。

町の住民の多くを占めるネワール族とタマン族の人々は頑強な兵士として知られてきた。タンセンを支配した王たちは、特に15世紀に西ネパールのほとんどを支配していた。その王国、パルパ(Palpa)は、ネパールを統一したゴルカ王朝に最後まで抵抗した国であった。彼らは、その後の1800年代初期のイギリスとの戦いで、さらにその名を高めたのである。その時この地域のネパール軍を指揮していた連隊長ウジル・シン・タパ大佐(Col. Ujir Singh Thapa)は、ネパール軍の4倍の兵力を持つイギリス軍を迎え撃つにあたって、獰猛で血の犠牲を好む女神バグワティ(Bhagwat)に助けを祈り求めて、もしこの戦いに勝てたら、必ずバグワティを祭る寺院を建てるとの誓いを立てて戦いに赴いたといわれている。1815年、彼は見事にイギリス軍を破り、約束どおりにバグワティのための寺院を建てた。しかし、戦争だけがタンセンの人たちの取り柄だというわけではない。

ジャムレ(jamre)と呼ばれるマーガルの民謡は特にすばらしい。祭の時にはマーダル(madal)という太鼓にあわせて踊りが踊られ、ごちそうが振る舞われる。イギリス軍との戦いで名声をはせたもう一人で、タンセンの知事を務めたアンマル・シン・タパ(Amar Singh Thapa)も、タンセンをこよなく愛し、カトマンズから優れた職人を連れてきて、アンマル・ナラヤン(Amar Narayan)寺院を建てた。この寺院はビシュヌを祭るもので、その木彫は大変優れたものである。また、毎日のようにプジャをささげる参詣者が絶えない。

1846年から1951年までのネパールがラナ将軍家に支配されていた時代に、タンセンは政治的に非常に重要な場所であった。そのころ、将軍家の支配に反対する政治犯たちがカトマンズから連れてこられてタンセンより西側の地域に追放されていた。まだ交通の不便な時代であったので、そこまで行けば、カトマンズの政治に影響を与える事はないだろうと思われていたのである。ラナ将軍たちはタンセンを西ネパールを押さえる町として、宮殿や別荘を建てて利用していた。タンセンの中心にあるそのような建物の一つには、バッギ・ドカ(Bag gi Dhoka.)と呼ばれる大きな扉がある。一説によればカドゥガ・シャムシェル・ラナ(Khadga Shumsher Rana)が象に乗ったまま宮殿に入るためであるといわれている。また、別な説として、馬に引かれた戦車を宮殿の敷地に入れるためであったともいわれている。タンセンの特産品であるダカ(dhaka)と呼ばれる細かなデザインの生地は、ネパールの手織りの生地としては一番有名である。カトマンズ盆地の女性たちは、何十年にもわたって、このダカ織りのショールを好んで羽織っている。また、ネパールの帽子トピ(topi)も多くがダカ織りの生地で作られている。このダカ織りはバザールのいろいろな店で求める事が出来るし、興味があれば、織っている所を見る事も出来る。

タンセンの陶器や金属器も有名である。素焼きの器は今でも家庭で利用されている。壷や皿、そして水をこすフィルターまで、素焼きのものが作られている。チャン(Chang)という地酒も、素焼きの壷に貯えられていれば冷蔵庫がなくても冷たく飲める。金属器では、深皿や、カルワ(karuwa)という水を入れる壷、お参りに使う器、また、フーカ(hookahs)というキセルなどが作られている。

タンセンの魅力はおそらくまだ近代化したり、都会化していないところだろう。晴れた日には、ダウラギリやアンナプルナ、マナスル、ガウリ・シャンカールといったヒマラヤの峰を見る事が出来るし、スリナガルの丘に登ればもっとどきどきするようなヒマラヤのパノラマを楽しむ事も出来る。

タンセンにはまだそれほど多くのホテルはないが、近年この山の上の町を訪れる観光客の増加に伴って、徐々に整備されてきている。実に、タンセンこそ、ネパールのすべてを味わえるところなのだ。

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