バイロピテの行く末

 バイロピテ診療所が、戦火の中に立ち上がって既に3年目が過ぎている。その間、ダン医師を中心に緊急医療を担う 存在として、かなり活躍してきた。来るものは決して拒まない。できるだけ24時間体制で、患者サイドに立ち続け るダン医師の姿は新聞や雑誌の表紙にもなった。しかしいよいよ立国の段階に入って、このバイロピテ診療所がどこ へ行くのか、親権に考えなければならない時が来ている。
 バイロピテ診療所は誰のためのものなのか・・・
 それはいうまでもなく、我々外国人のためのものでなく、ティモール人のためのものであるべきである。
 今朝も、昨日生まれた新生児が39度の熱を出していた。
 桑山はすかさずその子を国立病院に送った。ダン医師ならバイロピテで診ようといったかもしれない。けれど、役割 は決まってきている。早速病院のRAVー4を使ってそのこと母親を国立病院へ送った。これでいいのだ。バイロピ テは市中の診療所として一次医療を担うといいのだ。
 高度医療は、他の病院に任せていく方がいい。

 ところが、その病院へ赤ちゃんを送り届けたオーストラリア人ソーシャルワーカーのモリーンは、「国立病院ていっ たってひどいところだった。忙しいとは思うけど、緊急だっていうのに、地面に座らせようとしたり、長時間誰も声 をかけない。まさにこられても迷惑って感じだった」
 と嘆く。これでは、よほど我が身をなげうって何でもしようとするダン医師の方がいいし、信頼も得られるというも のだ。バイロピテは、従って、ダンの求心力で存在してきていることを、また改めて知る思いだった。けれど、やは り重症は大手の病院に送っていく。例え待たされても冷たく対応されても、バイロピテにはまず機材がない。
 ダンはその経験と直感で重症も診れるかもしれないけど、そんなことをやっていては、ダン以外は診察できないこと になる。

 バイロピテ診療所のティモール化を本当に真剣に考えなければならない。
 
 同時にIVY現地事務所は、コーヒーの輸出とタイスという伝統的な織物の復興、保存、その販路拡大、収入向上な どができないか、検討に入ろうとしている。
 医療も重要な一方で、人が食べていける手段を支援することも、同時に重要だろう。
 そしてコーヒーやタイスを日本で販売していくことによって、東ティモールがもっと近くなることを願っている。

 (桑山はあと数日で診療を終え、1月1日に日本に帰国します)

 皆さん、よいお年を!

 

診療 3日目 (12/27)

 変貌するバイロピテ

 オーストラリアからビッキー医師が来て、新井医師と合流し、現在桑山と一緒に働きながら、このダン医師ではない医師たちは、ある試みをしている。それは入院患者さんを持たないということだ。
 現在東ティモールの暫定政府は、ディリ市内にある病院のカテゴライズ(分類)を行っている。それは各病院が役割分担をするものであるが、その中でバイロピテ診療所は、あくまで診療所として機能する、つまり入院病棟を持たない方向がすすめられている。それに頑固に抵抗してきたのは他ならぬダン医師であるが、昔は紹介する病院が少なかったりうまく機能していなかったりして、けっきょくバイロピテ診療所で全部診なければならなかったのだが、現在は機能分化ができるまでに病院が増え、機能してきている。
 そこで、思い切って入院患者さんを持たないでどこまでやれるかに挑戦しているのだ。
 現在の入院は3人、みんな結核の人たちで、症状は安定しているが、入院するとWFP(世界食料計画)からの無償の高カロリー食が与えられるために、治療の始まった初期はまず入院してもらい、栄養をつけて帰ってもらう事を目的として、こうしている。
 だからそれ以外の患者さん、たとえば重症のマラリア、コレラ、チフスなどは、すぐにディリ市内の国立病院に送ってしまうのである。すると、それはそれで回っていくし、結構そういたシビアな患者さんを持たないとで、バイロピテ自身がスリムになってきている。これでいいのかもしれない。
 緊急救援型の病院として、入院病棟も必要であるが、もうそういった時期は過ぎているのだから、バイロピテの役割としては、市内の診療所としてやっていくというのでいいのではないかと思っている。
 それは、ダンのいない間にやっているところに問題はあるかもしれないが、以前モダンがいないときに、彼自身が強固に反対していたカルテの導入を桑山が強引にしてみたら、帰ってきたダンが、「意外にいいな」といったということからも、彼自身ではわからないことを、他のスタッフがすすめてみていいのではないかと思っている。
 こうして、東ティモールの医療体制も、少しづつ見えてきていると思うのだ。

 現地駐在の山西さんはすごい。
 今日は山西さんお手製のスパゲッティだ。これがすごく美味しいからまいってしまう。ちゃんと野菜も肉も入れて・・・。
 あまりに美味しいので、猫までよって来た。
 以前は山西さんが飼っていた「ちび」だけだったが、そのちびが子どもを生んで現在は全部で5匹である。その中で大きめのキジトラにゃんは、山西さんによって「ノリ」と名づけられていた・・・。
 僕が一番気に入ったのはこの「ノリだった」(やっぱり)。
 でもティモールの猫は日本の猫のような丸顔ではない。以前見たエジプトの猫のような面長で目がぎょろりとしたタイプだ。
 やっぱり猫は和ネコだよなあ・・・と思う桑山だった。


診療 2日目(12/26)

 朝、現在この病院を守っているオーストラリア人のビッキー医師に会う。久しぶりだけど、仲がいい。ダーウインの彼女の家まで押しかけていった経緯もあるし・・・。元気そうである。昨年末はけっきょくビッキーが倒れて、その代わりに桑山一人で病院を診ていたことがあった。
 ビッキーは、40代半ばの東洋医学を中心とする個人クリニックを営む内科医だ。
 今回は、よほど桑山が暑さにめげているように見えたのか、心配された。「水たくさん飲んでね、無理しないでね・・・」

 さて、午前の診察が始まった。
 全然患者さんの勢いは減っていないという感じがする。圧倒的に風邪が多い。ついでやはりマラリアか・・・。マラリアの場合は、血液を顕微鏡で見て、その中にマラリアの原虫を確認しなければならないので、すぐには判断ができないが、臨床的にはだいたいわかる。とにかく身体の力の抜けたような感じと高熱である。独特の汗と顔色がこのマラリアにはあるのだ。
 また、やはりではあるが子どもの患者が多い。この地で小児科医が必要とされている理由である。子ども用のクスリは特別用意していないが、必要最低限のシロップは確保されているので、解熱と抗生物質はシロップで与えられる。


診察室で。女の子の熱は40度
 さて、午後はビッキ医師が所用で来なかったので一人で診たが、それでも30人をこえる。ここでこのバイロピテ診療所が大きく変わろうとしている事態に出会った。それは、患者さんの受け付け時間を区切り、それをこえた場合は「診察しない」という姿勢になっていることである。
 これは時間外に来た場合はよほどの緊急でない限り診ないという姿勢に基づくものであるが、それはこのバイロピテ診療所が緊急救援の病院から、一般の市中病院に変貌してきたということも現れなのである。
 緊急救援時代の病院は、とにかく24時間体制、誰が来ても診るという姿勢が大切だが、東ティモールが立国していくにあたって、現在ディリ市内だけでも10を越える病院が稼働するまでになった。そしてその病院同士が役割分担をして、バランスをつくりつつあるのである。そんな中で、救急対応の病院もあるし、そこはある程度ちゃんとした設備と医師数が確保されているので、バイロピテは時間外の人を診なくても、そこへ行ってもらう
ことで医療は受けられるようになっているのである。だから、時間外に来た人はよほどひどくない限り「診ない」という姿勢を「とれるようにまでなった」のである。
 だから、午後も30人近くで終わった。
 これでいいのだと思う。以前のように1日700人をこえた!と誇っているようなことでは本当の意味で、ディリ市内の病院の役割分担ができていかない。現在のアフガニスタンなどであれば、そういった「緊急救援、何でもござれ」的な状況が望まれるし、そういった状況にもなってしまうのであろうが、東ティモールは、国となるべくがんばっているのだから、バイロピテ診療所は、病院としての役割をここで再度確認しなければならない時期に来ているのである。
 それは、「緊急救援型の病院」ではなく「一般の市中病院」として安定していくことなのではないだろうか。
 午後の診療が「患者さんが切れて、7時近くで終わる」のではなく、「時間が来て終わる」ようになったことは、やはり「発展」と呼びたいし、そんなふうにたくさんの病院が稼働するようになったことを、喜びたいと思った。
 IVYとしての関わりも、従って転機に来ているし、一般の市中病院になっていこうとするのであれば、どんな支援ができるか・・・今まさに再検討の時期である。仮にあくまでダン医師が自分のこれまでの経緯に固執するあまり、バイロピテ診療所を「何でもござれの緊急救援型病院」として私物化していくようであれば、その方向性にIVYとしては協力できないという意思をはっきりさせる時期に来ている。
 東ティモールの公立病院として、ディリ市内の病院との役割分担と連携をすすめていく方向性が打ち出されていくのであればIVYは引き続き支援していけるが、そうでない限りは、ダン医師の個人的な情熱のみに振り回される事態にもなりかねないこのバイロピテ診療所との関わりをどうするか、真剣に考えなければならない状況になっている。


灼熱の東ティモール (12/25)

 第7回目の東ティモールについた
 この地を初めて踏んだのが1999年の2月なので、ほぼ2年になる空港についてびっくり、何とターンテーブルができているではないか
 これまでは空港の職員が重い荷物をトラックで運んできたら、小さな穴のようなところからずりずりと押し出すように並べていたのに・・・
 少しづつであるが東ティモールも変わってきている。
 事務所についてまたびっくり、何と電気が順調に来ているではないか。これまでは休みといえば日中は停電という感じだったのに・・・
 インフラの整備は、目に見える形でその国の復興の目安となっているが、それでも日本に照らせば戦後直後、昭和20年代中期から後半・・・というところなのではないだろうか。
 その時期を経験していないが、この都市の不便さともろさは、そんな時代にきっと近いに違いない。
 現地駐在の山西さんは元気である。
 トヨタカローラ山形から寄贈していただいたRAVー4も元気であるが、とにかく汚れまくっている。
 きれいにして写真を撮りたい。

 明日から診療開始。
 どうなるだろう・・・・

 

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