これからのバイロピテ診療所

 いよいよバイロピテ診療所にも新しい政府との契約の時期が来た。結局政府が作った保健医療プランに則って運営を進めていく必要があるわけだから、これは来るべくしてきたものといえる。バイロピテはその規模や役割から、外来部門を中心とした病院としての運営を期待されている。従って新政府は外来部門の支援を中心に行っていくことになりそうだ。しかしバイロピテ診療所としては、病棟部門も引き続き運営していきたい。そこで、その病棟部門は我がIVYが全面的に受け持つことになりそうである。もちろんスタッフは現状維持で行くので、その運営や人件費をこちらでカバーしていくわけだ。まあ、そしていつの日か、医療プランが出揃って、全体的な視野に再度立ったとき、バイロピテの病棟部門が果たしてきた役割が再認識あれて、そこを新政府が支援する方向を水面下で行っていくしかないだろう。
 そしてできるだけ多くの経験者を日本などからも入れ、スタッフの中に改善に向けた具体的なイメージが育つようにしていきたい。事務部門、看護部門、助産婦部門、薬局、それぞれのセクションで働くスタッフが、海外の病院を見た経験がない。従って、こちらが「こうするといいよ」といったところで、その具体的なイメージが育っていかないのである。だから、多くの人に繰り返し、そういったビジョンを語ってもらうことで、少しでも具体的なイメージが育つようにしていきたいのだ。結局重要なのは教育という目に見えない、個人の資質の向上に期待していくことだろう。
 もちろん建物の建設も今年度中には着手できると思うが、同時に人を育てていく・・・それも重要である。その任を担う山西さんも、もともと医療にはまったくタッチしてこなかったとはいえ、近々自分なりに村へ出かけて保健教育の事業を立ち上げたいと言っている。それ
であれば、素人(に近い)自分にもできるのではないかと考えているのだ。自分が素人であるがゆえに、自分にとってわかりやすいことは、同じ素人の村人にもわかりやすいと考えているのだ。この前向きな姿勢を評価し、どんどん進めてほしいものだと考えている。

  現地駐在の山西さん

 そんな現地駐在山西さんの趣味は、「チビ」である。
 子猫のチビは、IVYの事務所にいつのまにか居着いた子 猫である。
 勝手に山西さんがチビと呼んでいるが、それはただ単に 小さいからである。しかしちゃんと食事時にはやってく るし、山西さんもわざわざ市場に行ってサバ缶を買って くるのだった。

           チビ

 「お、サバ缶、山西さん料理して食べるんですか?」
 「いや、ちょっと・・・」
 「ちょっと・・って、どうしたんです」
 「いや、っち、ちょっと・・・」
 「はは〜ん、さてはあのチビに!!」
 「な、なんでわかったんすか!!??」
  そんなもんすぐわかるって・・・

 ともすればこの国では食べていくのに必死で、犬や猫に 名前をつけて飼うことはしない場合が多い。
 けれど、山西さんは、それが単に「チビ」であっても、 そう名づけてかかわりを持っていくのだ。
 この心やさしい青年が、大切な人生の時間をかけてこの 苛酷な環境の中、ひとつの国の独立にかかわっている。
 それは、チビを一生懸命かわいがりながらも、寄ると逃 げていって「なかなか触らせてくれないんですよ〜」と 嘆く彼の姿に映し出される、東ティモールという国と日 本の関係の縮図かもしれない。
 けれど、少なくとも金だけ出して人を出さないと批判さ れる日本政府の姿勢からすれば、一人の人間としてこの 地にすみ、猫にさえ細かなかかわりを持ちながら、暮ら
 すこの日本人の姿こそ、本当の意味での国際貢献である ように思う。

 桑山は10日の夜に成田に帰国の予定。
 次回東ティモール渡航は11月の予定。

バイロピテ日誌 7.7

今日病院にラモスホルタがやってきた。
93年のノーベル平和賞を受けた、東ティモール独立のために戦った政治家である。この年のノーベル平和賞はラモスホルタとともに、ベロ司教という東ティモール人の宗教的心の支えとなっている人も同時に受賞しているが、これをインドネシアはまったくなかったことのようにあしらっている。
 そのラモスホルタは、でっぷりと太った政治家風の人だった。しかしその洗練された英語と身のこなしは、まさに知識階級という感じ。ヨーロッパで勉強してときに反旗を翻し、祖国独立のために戦ってきた人だが、きっと教育を十分に受け、いろんな事が見えるようになってきたために、そういったいばらの道を歩んできたのだろう。知らなければよかったことも、教育によって、その個人の知識は触発されその人との知るところとなり、自分に嘘はつけないという生き方ゆえに、このいばらの道を歩んで来たに違いない。
 その祖国も、ようやく24年ぶりに立を宣言、そして来月8月30日には最終的な選挙だ。これで独立の最終段階を迎える。ラモスホルタもその政治の中心に位置するだろう。現在も外務大臣的な活動をしているので、その要職につくように思われる。その彼が、バイロピテを出る時に、病院の入り口にいつもある椰子の葉っぱをふた駄菓子屋の屋台に立ち寄り、ジュースを買っていた。そのなんとも庶民的な風景に結構打たれた。
 大統領になると目されているシャナナ・グスマンよりも人々の人気が高いというものわかるような気がした。



バイロピテ日誌 7.6

 今日も気持ちのいい晴れの日だった
 風の強めの日が続いていて、風になびくやしの木がかっこいい。
 さて、今日も診察を通訳なしで敢行ていると、マラリアの多いのに驚く。マラリアは雨季のじめじめしたときに多いはずだが、乾季に入りかけている現在多いのはなぜだろう。やはり栄養の不足からくるものか・・・
栄養が行き届かないと、マラリアも悪くなり病院へくるんだろう。
 オーストラリアから、マークとジョンという2人の医学生が今来ている。日本の医学生と大きく違うと思うのは、最終学年の臨床実習に、こういったバイロピテ診療所を選べることだろう。日本の場合は、所属する大学病院かせいぜいつながりのある県立病院での実習が関の山なんだろう。彼らは非常に熱心にテトゥン語を覚えようとしていて、これが医学生なのか!!と思わせるような巣すごさがある。この7月末に我が山形大学の後輩で、現在若い医者となっている2人が入るが、彼女たちから見た、こういった医学生の臨床実習の実態の感想を聞きたい。

 さて、そんなバイロピテでの日々も今回はあと3日だ。
 ダンは相変わらず元気である。

風の島 2001.7.5

 雨季がまだ続いてお手、雨が激しく降る首都のディリ
 昨日、7月4日に第7回目の支援活動でまた東ティモール入りした。久しぶりにオーストラリアのダーウイン経由で入ったが、飛行機が降り立つときにすごいスコールが来ていてなかなか降り立てなかったのだ。
 そして、すっかり涼しくなった7月のディリが待っていた。やはりこちらは南半球なんだろう。
 さて、今日は7月5日、昨日のアメリカ独立記念日の余韻で、在東ティモールのアメリカ人の動きは鈍いはずだが、ダンはいつものように朝8時から病棟を回った。考
えてみれば「独立記念日」がある国が圧倒的なのに、日本にはそれがない。以前バイロピテの東ティモール人に「日本の独立記念日はいつ?」と聞かれて、うっと詰まったことを思い出す。東ティモールの独立記念日はしかしそれでも99年の8月30日ではなく、1975年のポルトガルからの独立を記念して、10月5日なのだ。インドネシアから侵攻を受けたこの24年間はある意味「空白」として扱ったいるから、2年前の独立を問う国民投票については、歴史上「独立」とは呼ばないつもりのようだ。

 「じゃあ、ミーティング行くからよろしく」
 ダンはまた今朝そう言っていなくなった。まったくなあ、最初に言っておいてくれよという感じだが、さすがに慣れた桑山はいつものようにダンの診察室に座り、診察
開始。
 5月に来たときに導入したカルテがちゃんと機能しているではないか!!
 いやうれしいなあ・・・
 前にどんな治療を受けたのかがわかる。でも8割くらいが「新患」だった。いつかすべての東ティモール人(といっても80万人しかいないけど)がこのバイロピテを
訪れるのではないだろうか・・・。

 そして念願のトヨタカローラ山形から送られてきたRAV-4が走っているではないか。


念願のRAV−4の前

 でっかい「IVY]のロゴが目立つ。なかなか抑えた色でい い。これは正解だった。
 トヨタの伊藤さんや社長、専務も皆さん大喜びだろう。
 早速、今日は午後から、6件ほどがみんなチフスにかか っているんではないかという村へ往診だ。
 このRAV−4にしてみれば、それまで山形の道を安全に 走っていたのに、すごい人生の変わりようだろう。今日 はチフス患者さんへの往診に走っていくのだ。

 昼はさすがに暑いが、朝と夕方は冷え込むディリからの 第1報でした。

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