バイロピテ日誌 5.24

ミサの病院
今日は病院でミサがあった。
 このバイロピテ診療所は、もともとあるカトリック教会に所属する由緒正しい病院なのであるが、そのため、まれにではあるが病院でミサを行うのだ。
 桑山ははじめてその光景に出会ったが、イタリア人神父がちゃんと病棟まで行って、身体をくっつけてお祈りをささげる姿には心打たれた。病気の重さで、起き上がることも出来ない患者さんが、何とかがんばって起き上がり、神父様に口づけをする風景は荘厳としか言いようがない。
 病気という逃れにくいものに取り囲まれて不安な患者さんたちだが、神父様の一言一言にうなだれ、そして小さな声で告白するのだ。
 「私は故あってこの病気になったけれど、決して病気に支配されたり、病気によって自分を卑下したりすることはないように生きていきます。どうか見守っていてくださ
い」と言ったことを、卵巣腫瘍で末期的な患者さんが言うのを聞いて、胸が詰まった。
 桑山にはそんなことは言わない。いつも調子が悪い、食べれない、何とかしてくれ・・・と言う感じなのだが、根をたどれば、そんな気持ちもちゃんと持っているというか、そんな気持ちを持とうとしているということだ。

 病気は医師が治すものではなく、医師とスタッフと、そして心を支える人がいっしょになって戦っていくものなのだという事を知った気がした一瞬だった。

 いよいよこのバイロピテを医師独りで守るのもあと1日。
 今晩、呼ばれないといいなあ・・・と思い、にわとりのうるさい部屋で休もう・・・。


バイロピテ日誌 5.23

今日は恐ろしい目に遭った

IVYの現地駐在員、山西さんと夕方食事に出かけたときのことだ。
事務所から大通りに出るときに、なかなか出られず、ようやく出られると思ったら左からバイクがきた。
お互いは止まって、特別ぶつからなかったが、向こうはバイクから降りて、フロントガラスをたたき、山西さんに「降りて来い」という。降りれば暴力が発生することは必死であり、少し窓ガラスをあけて謝り、走り出した。ところが向こうは追いかけてくる。しばらく橋って、これはCivil Police(文民警察)に行くしかないと判断してそこへ向かおうとするが、途中細い道へ入ると前にそのバイク男が止まり、わやわやと人が集まってくるではないか。「囲まれた」状況である。以前から、酔っ払った群衆に取り囲まれて
ひどい目に会った人の話は聞いていたが、まさか自分たちがその目に遭うとは・・・。
 結局バイロピテに逃げ込み、そこで桑山が困ったときに頼れる唯一の方法、「救急車」を呼んだ。今朝も、血痰、どこどこ履いている女性を中央病院に送るべく呼んだので、よく知っている気のいい3人のオーストラリア人チームである。
 バイロピテの中庭で、ドアロックを掛け、男がその周りを怒鳴りながら窓やドアをばしばしたたくのをやり過ごしながら、救急の来るのを待つと、2分もしないうちに回転灯を光らせながら救急車が滑り込んできた。このときほど救急車がありがたいと
思ったことはない。まさに一秒を長く感じる患者さんの気持ちだった。
 山西さんは降りると標的にされるので、桑山、思い切って降りて、救急隊長に話しをすると、もう既に文民警察は呼んであるという。それまで、楯なるから・・・
と言ってくれた救急隊員のなんと頼もしいことか・・・。

 へばっている桑山

 結局男は酔っ払っており、いちゃもんをつけているだけなのであるが、こっちが多勢になると急に大人しくなって いった。
 文民警察が来る頃には、男が握手を求めてくるので、あえて事を大きくするのではなく、「和解案」ということで 握手をし、文民警察にも、特別事件としてあげることはなくていいようだと伝えて、帰ってもらった。
 酔っ払った男は、その友人がバイロピテに入院していたり、こっちが病院関係者だと本当に知ると、急にそわそわ と立ち去ろうとする。
 結局電話番号も聞いて、後の再攻撃に備えた上で、別れたが、もういちゃもんをつけてくることはないだろう。取 り囲まれる。暴言を吐かれる。ばしばし窓をたたかれる・・・。みんなソマリアで経験した辛い思い出を呼び起こ して、気持ちはぐっと落ち込んだ。でもそれ以上に、現地駐在山西さんはもっと落ち込んでいる。こんな経験は初 めてだと・・・。
 
 救援にきた国で、その国の人々から仕打ちを受けることは、どんな形であれ気持ちにこたえるものである。山西さ んがこんなことにめげず、これからもティモール人と協力関係を保っていけるといいが・・・。
 夕食はまずかった
 決して「君たちの国を支援しに来たのに、その仕打ちはなんなんだ?」などと言う泣き言は感じてもいないし、思っ ていもいない。しかし経験したこともないような数の外国人との付き合いや、急激に変化していく社会の中で、テ ィモール人もストレスをためていくのであろう。
 「支援」とは、いつも紙の上に書いたようには行かないのが現状である。

 今日もらい病の人を2人診た。
 毎日毎日、医学生時代に教科書で勉強した未経験の病気、チフス、コレラ、らい病、デング熱、マラリアなどに出 会って、直接触れる。結核も、日本では肺の病気と思われているが、そんなことはない。ありとあらゆるところに 「巣」を作る病気なのだ。つめの先、髪の毛の根元、下の先、のどの外側、腹の中、血管の中・・・本当にありと あらゆる場所である。ここへ来て、初めて、そんな病気の真の姿と出会い、病気と人類の戦いのもっとも生々しい 部分に触れている気がする。
 あくまで青い東ティモールの空の下。
 病気は、そうして人類と共にいつもいる。
 なかなか去っていこうとはしない。

 水曜日でも400人以上は一人で診た。
 ダンのいないバイロピテも既に5日、かろうじて守れているが、ひとり亡くなりそうで怖い・・・。

恐れていた月曜日  2001.5.21

 ついにダンのいない月曜日が始まった
 この病院に医者は自分ひとり。すべての責任は自分にかかってくる。
 病棟には重篤な患者さんがあふれている。
 結核で呼吸が止まりそうな老人、チフスで熱の下がらない女性。卵巣腫瘍でおなか
の痛みが取れない人・・
 いつ何が起こってもおかしくない時間が過ぎていく。
 朝8時半に外来をはじめたが、結局午前は1時30分まで延々と患者さんが切れない。
 入院は2件必要になった。
 頼もしく育ってきている医学生、ネリアがサポートしてくれている。かなり助か
る。
 全体を見通すと、やはり半数がかぜ症状を訴えている人。しかし残りの30%近く
は「全然病気でもない人」の受診と思っていい。結局「かまってほしい人」「不定愁
訴」の人たちである。
 でも決してないがしろにしてはならない。
 日々苦しい生活の中で、病院に行くことをひとつの張り合いにしているかもしれな
いのだ。
 なるだけ笑顔で・・・と思って接するが、午前も午後も終わり近くになると、自分に
笑顔が出にくくなっているところに気付く。
 余裕を失うのだろう。
 そんな中で、やっぱり励まされるのが「子どもだけで受診する」姿である。
 大の大人がなんでもないのにやって来て、あれこれと訴えると、余裕のない時間帯
では辟易としてしまうが、子どもたちが恥ずかしがりながらにやってくると、まあ、
こっちの気持ちが和むと言うものだ。
 今回は風船など余裕がなくてもってこなかったが、「ありがとさんよ」と礼を言い
たくなる瞬間である。

 





それでも病院も少しづつよくなってきている。
 なんと発電機が入り、停電が続くと言うことはなくなったのだ。最近は電気も順調に来ているので、発電機を動かすことも少ないが、それでも電気があるということは
うれしいものだ。電気で水をくみ上げているので、電気さえあれば、水もでる。
 そうやって、インフラが少しづつ整備されることで、バイロピテもちゃんと病院らしくなっているからすごいというものだ。

 一方で、スタッフの勤務姿勢などをきちんとするために、わがIVYの現地駐在、山西さんのしている努力はすさまじい。南国的志向なのか、ふらりといなくなったり、気が向かないとでてこなかったりするそのむちゃくちゃな勤務姿勢などを、何とか軌道の乗せるべく、山西さんはがんばっているが、そのために導入したタイムカードなどにいたずらされたり・・・となかなか落ち込まされる出来事も多い。「自分は何をしにここに来ているのか」と言う問
いかけを常にしてしまって、辛いところである。
 決して「あなたたちのために来ているのに、どうしてあなたたちはそんなふうなの?」と言うことをいいたいのではないが、もっと「一緒に国を作っていこうよ!」という気概を感じたいところなのである。
 紙上で規則を作って守っていくという思考に乏しい、途上国などでチームを組むのは、本当に難しいものであろう。

 明日もまた500人近い患者さんを一人で診るの    か・・・・たて込むバイロピテ
       月曜日は500人



たてこむバイロピテ


バイロピテ日誌 2001.5.20

 3ヶ月ぶりのディリに入った。街の様子はあまり変わっていないが、少し道路がよくなった。わがIVYの現地駐在、山西宏明さんも元気そうだ。全然病気しないでこの3ヶ月間、過ごしている。タフな人だ。
 バイロピテにつく。様子は相変わらずだが、清掃担当のセルジオがいない。給与をもらったら酒飲み過ぎて、出てこなくなり、解雇されたのだ。寂しいが、南の島ではそんな風に「給料もらったら2,3日は飲みつづける・・・」と言うのもありなんではないだろうか。家族も困らず(他に収入があるので)、自分も食べていければ(誰かが
必ず面倒を見てくれるので)、いいじゃないか・・・と思う。しかし病院が汚れていくのはいけないために、仕方ないところだった。

 さて、ダンは今日の夕方にアメリカへ向けて出発だ。
 長男の結婚式で1ヶ月間、このバイロピテを離れる。その間、3人の医師が交代で、この主のいないバイロピテ診療所を守るのだ。なんとも恐ろしい。早速午後からは、準備も整わないまま診察が始まった。思いのほかテトゥン語を忘れていない。次から次へとテトゥン語がでてくる。不思議だ。必要に迫られて覚えたものは、こうして身になっていくのか・・・それから見ると、学校で勉強した英語のなんと残らないことか・・・。やはり英語は、生きた「生活」として身につけるのが一番なのかもしれない。

 さて、午後になると、やはり多いのが子どもたちと、駆け込みの重症患者さんたちである。相変わらずマラリアは多い。しかも、ファルシパルムと言う、比較的重いタイプのマラリアが増えている。これは要注意。診断を誤らず、クロロキンにファンシダールを混ぜて投与するとよくなる。この日だけで、3人のファルシパルムタイプを診察した。気をつけねば・・・

 あっという間に6時を過ぎた。今日は土曜日だったからこの程度だろう。それでも100人は診ただろか・・・。
 恐怖は来週月曜日と夜間の難産である。
 それにおびえながら、あと1週間、診療は続く。

  マラリアを疑う子ども・・・・暑い診察室


  

東ティモール情報 2001.5.20

5月18日より、桑山医師がディリに向け渡航しました。
ダン先生がアメリカに一時帰国することになり、そのバイロピテ診療所の患者さん
を一気に引き受けることになったわけです。
今後、そんなバイロピテ診療所での出来事をご報告できると思いますので
お楽しみに!

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