ついに、後藤明子さん、東ティモール入り!

 地球のステージの映像担当、ステージクラブの事務局担当として知られる後藤明子さんが、ついに念願の東ティモールに入りました。なんとついたその日の夕方に「ドン」と電気が落ちて、出国するその日まで全く電気のこない「電気に見放された」後藤さんでしたが、「晴れ女」として名高いことは健在で、ついたその日からどんどん晴れていき、最終日はまさに「南国の楽園」としての東ティモールの面目が躍如されました。
美しい東ティモール

 後藤さんは今後、この東ティモールの支援事業を支えていくメンバーの一人となりましたが、これまで「地球のステージ」で何度も映してきたその写真やビデオが、 実際に目の前に広がったときは感動していました。 30分もあれば端から端まで行き渡せるような小さな街ディリですが、それでも復興の息吹を感じていたようです。
 そしてダン先生にも会いました。
 思っていたとおりのタフで人間性あふれるダン先生との出逢いで、ますます元気が出ていたようです。

 また、滞在中は、このバイロピテ診療所の事務部門のレイモスと仲良くなり、やはり事務系の仕事を通して息が合っていました。現在自分がしている仕事の延長線上で、こういった国際的な出来事と十分関われることを後藤さんも感じてくれていたようです。

ダン先生と

バイロピテ日誌  2001.2.16

週の半ばが一番辛い

 ようやく滞在も半分が過ぎ、週の半ばを超えた。
 正直、毎日朝から暗くなるまで何百人という患者さんを診ることは疲れる。
 週の火曜日と水曜日がものすごく辛い。長く感じる。
 海外で仕事をすると、意義はあってもその疲れをどこで解消していくかは大問題だと
痛感する。特に東ティモールのように、おいしいレストランがあるわけでも、買い物三昧を楽し
めるショッピングモールがあるわけでもない国では大変だ。テニス一つするにしても、
崩れた壁の中の、雨水のたまったコートしかないという。
 この東ティモールで活動するNGOのスタッフは少しづつ数が増えてきているが、そ
ういったスタッフの精神衛生を維持することも大切であるが故に、こういった仕事の疲
れを解消する方法をどうやって見つけていくかは大切なテーマである。

 さて、現状をざっとまとめてみると、以下のようになる

1)雨季の真っ只中にいて、マラリア、デンギー、チフス、結核などの病気が激増して
いる
2)電気や水のインフラ整備が整わないために病院も一時的に麻痺状態になったりして
いる
3)一方国の治安はよくなっており、夜もあまり遅くならなければ、仲間と歩いていら
れるようになった
4)一方、立国への取り組みは遅遅として進まず、6月末に行うといわれていた総選挙
は、出来ても8月30日という線になっているし、この8月30日路線にしても「年末ま
でに総選挙ができれば御の字」という意見も出てきている
5)UNTAETの国際スタッフ中にも、「本当にこの国はひとつの国としてやっていけ
るのか」という疑問をはっきりという人も増えてきている
6)経済的に、諸外国と渡り合えるような産品がないし、観光で売れる部分もなくどう
考えても外貨を獲得する手段がない
7)債務をためて、結局すべての資源や人材を担保にして大赤字の国としての立国は避
けたいが、現状から判断するに、そうなってしまう可能性が高い

 これでは、お先真っ暗な話になってしまっている。
 少し明るい話題としては
1)沖合いの油田
2)小さな政府、小さな農業自給国として自立の道を探る
3)健康を守り、人材育成を心がけていくことにより、国としての意識をもつ

 これらが可能であれば、わずかながらに東ティモールは国として立脚していけるのではないだろうか。

 IVYとしては、今後事務所を作り、人材を派遣して、この国を見守っていきたいと思っている。

 今日もダンが夕方ミーティングに出かけ、一人で診察をしていた。
 あたりも暗くなり、そろそろ恒例の夕方の停電が来そうなので引き上げるか・・・と思っ
ていたら、少年がやってきた。
 薄暗い中を一人出歩いて、病院に来た彼は、12歳、ジャニュエロという名だ。
 かぜのひき初めなので、薬を出したが、12歳のジェニュエロと接してやはりアカペ
トを思い出した。
 アカペトは今もディリで元気に生きているだろう。
 言葉少なげなジャニュエロであったが、それでも懸命に生きていこうと病院までひと
りで歩いてきたのだ。
 栄養が十分ではないから、腕も細いジェニュエロの姿に、それでも、これからの東
ティモールの前を向こうとする意識を感じて、うれしくなった。              

 12歳が、言葉は少ないけど訴えてくるそのか弱さと勇気という両面を、最後に感じ
て今日の診察を終えた。あと5日だ・・・。

ジャヌエロ、12歳・・かぜ

バイロピテ日誌 2001.2.14

電気!!!!!

きた
テトゥン語では
Electrosidad Mai!!!(エレクトロシダッド、マイ!!)
もう狂喜乱舞で患者さん立ちほったらかし・・・という感じだった。
でもそれは以外に僕だけで、みんな「来たね!!」と喜ぶけど、僕ほどではない、やっ
ぱりなれている人たちは違うな。
電気がない生活はこうして4日間で終わったけど、ずいぶんいろんなことを考えた。
一番感じたのは、生活を維持するために最低限必要なものは何かが見えてくるというこ
とだった。それは実は電気ではない。水だ。
飲み水は買えばあるので、まあ何とか・・・という感じだが、顔を洗ったり、歯を磨いた
り・・・。水を浴びたりという水がないことが一番こたえる。
桶にやっとの思いで汲んだ水を丁寧に、こぼさず、無駄のないように使うようになる自
分を見ていて、やはり使える水は貴重だとつくづく思った。
電気は確かにパソコン、携帯、ビデオカメラを動かすために必要だが、正直、切れたら
切れたで生活はできると思った。しかし水は違う、精神的にどんどん追い詰められてい
くのだ。 

電気が来て、検査機材がようやく動いた


今日の午後、電気がきてポンプが作動し、蛇口から水が出たときのうれしさ。それは久
しく経験していなかったことだが、思い出したのは阪神・淡路大震災で長田区に入った
ときの救援の日々だった。やはりインフラは大切だが、それだけ、インフラに依存して
いる自分に気づいたこの数日だった。

チフスの女性は少しづつ回復しているが、今でも昼を過ぎると40度を越える高熱が続
いている。クロラムフェニコールという特殊な薬剤が効くことを待っているが、なかな
か厳しい日々である。
体力が失われ、血圧も低い。

それでも今日は久しぶりの青空だった。嵐も一段落で、青空にゆれる椰子の木を見てい
ると穏やかなこの島の国の時間が一瞬止まったように感じたものだ。

バイロピテ日誌 2001.2.13

今日も電気が来ていない
これでなんと4日目だ
病院の機能はほとんどストップ、まさに原始の病院という状況である。
このパソコンも、友人のホテルで充電してようやく使えている。
ダンももういらいらして、「電気はいつ来るのか」といつも聴いている。

正直マラリアの検査も結核の検査も出来ない。患者さんたちのサンプルはたまる一方
で、マラリアの原虫がいるのかどうかもわからない。まさに、なにも見えない中で手探
りの治療をするという毎日である。

電気が来ないと水も出ないために、不潔な領域が多くなってきている。
正直、ここまで来て、発電機を入れられていないことが悔やまれる。
現在オーストラリア政府が寄贈してくれた発電機を待っているが、昨年12月につくと
いわれていても、まだ来ていない。
今年の12月の間違いだろうか・・・と冗談を言い合うほどのあきらめムードが漂って
いる。

とにかく、一刻も早く電気が回復し、水が出るようになることを祈るしかない。

雨季の終わりの嵐の中で、バイロピテ診療所はゆれている。

バイロピテ日誌 2001.2.12

 昨日の日曜日、小諸というところにある送電所からの送電線が強風で倒れた木で切
れ、辺り一帯が大停電。現在も続いている。
 おかげで月曜日の忙しいバイロピテは、診察室が燃えるような暑さだった。
 ダンが400、僕が200人診るという割合だったが、とにかくマラリア、結核が多
い。それから今日は入院している患者さんが急激に悪化。ダンと相談し、チフスである
と判断。クロラムフェニコールを開始した。効くといいのだが・・・。連日夕方になる
と40度を超える高熱が出ては下がるという熱形である。

 さて、現在IVYは、このバイロピテを運営していく日本人スタッフを急募してい
る。ティモール人のレイモスも事務部門のトップとしてがんばってはいるが、いかんせ
ん英語が達者ではないし、UNTAETや他の国際機関との交渉がうまく出来ない。
 今日は日本政府の代表事務所に出かけ、病棟の増築の依頼をしてきたが、非常にいい
感触であった。1000万円以内でできるかも知れない。
 念願の新病棟や水道、電気を整備できる大きな可能性だ。
 そういった交渉や見積もり、工事完成までの道のりをマネージメントする人が、どう
しても必要だ。
 現在非常に有望な人が数人応募してきてくれている。
 2月末には派遣し、現地駐在事務所をいよいよ持つ方向で考えていこうと考えてい
る。
 これは非常に急を要する仕事だ。
 なぜならば、あふれた患者さんたちは、現在廊下に寝ているのだから・・・これではまる
で野戦病院。そして電気が来ないと何も出来ない費を3日も経験すると、検査もだめ、
水も出ない・・もはや病院としては機能しない状況となってしまっているのだ。
 それでも毎日600人近い患者さんがやってくるこのバイロピテを、何とか立て直そ
う!!

バイロピテ日誌 2001.2.9

 今日、土曜日は朝、ダンが「今日はオレミーティングに行って1日いないからよろしく」と 言って始まった。
 最近土曜日は少ないと聞いていたからタカをくくっていたが、そんなことはない。結局昼過 ぎまでかかって200人近い患者さんを一人で診た。

 デング熱を疑う人も2名、入院2名(共に重いマラリア)、救急車で担送する人も1名と、 華々しい土曜日だったが、やはり感じたのは病棟の不足である。
 現時点での入院ベット数ではぜんぜん足りない。仕方なく、今日の入院の人は廊下に寝ても らっている。
 まるで野戦病院だ。
 この点について何とか日本政府などからの協力を得たいと思うので、月曜日に日本政府連絡 事務所へ行ってくる予定である。

 こうしてみると、ダンの苦労がしのばれる。
 これ以上に忙しい日々を彼は既に2年も過ごしているのだから・・・
「朝から救急車の搬送で忙しいバイロピテ」

バイロピテ日誌 2001.2.8

 バイロピテ診療所での診療活動が始まった。
 いくつかの変化があったので報告したいと思う。

 まず医学生7人いたうちの2人がアメリカに研修に出かけていた。アイダとテルマである。 約1年間、イェール大学で研修してかえってくる予定である。
 日本の大学医学部も受け入れるといいが、いかんせん言葉の問題や、そういった受け入れシ ステムをほとんど持たない閉鎖性の問題などがあって、なかなか実現しそうにない状況であ る。
 それから雨が降り続いていて、マラリアと結核が激発している。
 病棟はほぼ満床である。
 しかも重症者が多いので辛いところだ。
 東ティモールは今雨季の真っ只中で、それによる伝染病の蔓延が深刻化しているとい状況で ある。

 さて、今日は朝から村回りの巡回診療に出かけた。
 最近のバイロピテ診療所は手を広げ、村回りをしているのだ。
 今日は延々と河をさかのぼるというルートをたどった。なんと道がないときは、河を道代わ りに進むのである。激流ではないにしても、ボンネットまで水につかりながら、河を道とし て進むという経験はめったにないものであろう。
 しかしついにもうこれ以上は進めないという川の流れに阻まれ、私たちはその河の中洲で即 席の診療所を作った。
 やしの木の株の周りに座るところを作り、横にビニールシートをひいて薬局まで作る。まさ に「青空診療所」の出来上がりである。
 しかしそこの診療所が出来たことをどうやってもう少し上流の村に知らせるのかと思ってい たら、ただ単にクルマのクラクションを長く鳴らすだけなのだ。

 中州での診療

 ほんとにそれで来るんか?といぶかしんでいると、来るは来るわ・・・ぞろぞろと、上流の村 から人が集まってきた。
 たいしたもんだと思った。
 電気も電話もないところで、どうやって移動診療が来たことを知らせるか・・・それは、ただク ラクションを鳴らすと、村の人々は、「政府のお達しの人が来た」か「医者が来たか」と予 測をし、下流から上流に登ってくる人に尋ねるようだ。
 そして「医者が来たみたいよ」とその人が言えば、みんなぞろぞろと集まってくるわけであ る。

 これを「高文脈文化」と呼ぶが、暗黙の理解や非言語的な解釈が存在する東ティモールなら ではの出来事だった。

 結局20人ほど診察し、ほとんどが風邪だったことを確認して処方して帰ってきたが、ひと り、重い結核を疑わせる人がいたので、明日病院に来るように言って別れた。

 こんな風にバイロピテの診療活動はまた、5回目、始動した。

 それから今回は、「地球のステージ」の音響担当の須藤崇さんに同行してもらっている。
 バイロピテ診療所にアナウンスのマイクと、内線電話を設置する仕事をお願いしているの  だ。
 今日は雨に阻まれ、なかなか仕事が進まないとこぼしていた須藤さんであったが、それでも その見事なまでの配線技術で、バイロピテのみんなは感心していた。
 思わず、
 「Oh! It's a Japanese technology!!」(おお!!日本の技術はすごい!!)
 バイロピテがこうして少しづつ、変わっていくのだ。
 しかもそれまで国際貢献などとは無縁と自ら思っていた、ひとりの職人によって・・・
 (ちなみに須藤さんは、これが人生初の海外経験なのです)

 次回は2月12日に更新する予定です。

 おたのしみに!!

  道なき道、河のルートをさかのぼっていく

トップページ へ